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| | City104kenko| | ||||
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| 憎しみまで包み込んだ大きな愛こそ、本当の優しさ 〜〜羽成幸子さんのお話を聞いて〜〜 |
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| 3月半ばに新宿区・四谷区民ホールにおいて「介護の達人」というタイトルで羽成幸子さんの講演会(四谷地域センター運営委員会主催)がありました。 City104健康サイトの管理人としては、「非常に大切なテーマ」と直感して、聞きに行ってきました。 本当に良かったですよ!。これは、聞きに来て本当に良かったと思いました。ちょっと涙が出てきてしまうほど、感動しました。人の見方が変わったかもしれません。 |
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| 羽成さんは祖父母、父母、姑の五人を看取ってきた経験があります。特に姑さんとの生活を中心にしてお話しをしてくれましたが、それに先立ってこのようなことを言われたのです。「皆さん、老いをどのようにイメージされていらっしゃいますか。」 そうです。「老い」のイメージは、たとえば「人の世話にはなりたくないわ」とか「ぽっくり逝きたいね」とか・・・。特に人を介護したことのない人は比較的安易なイメージをもっていたり、「どうにかなるさ」と思っているのではないでしょうか。 しかし、羽成さんははっきりと言い切りました。・・・多くの人は、死の手前、せいぜい人生の80%のところをイメージしているのです。実は、残りの20%こそが「老い」なのです。 「あと20%のところで、下の世話を受ける時が来るのです」 それは確かに人によって程度の差はあるでしょう、病院でせいぜい2日くらいのことですむ方もいれば、長―い介護を必要とする人もいる、というわけです。 いずれにしても、「老い」は人間として厳粛に受け止めて真面目に取り組んでいかなくてはいけないのではないのか、わたしはそう思いました。羽成さんは「今度は私の番」という考えをお持ちのようですが、私も羽成さんと同じ年齢ということを知りまして、認識不足を感じました。 時間をはしょりますが、講演の最後の方で羽成さんは「死」について、このようなことをおっしゃいました。死は、最後の贈り物、と。そうです、私は、死という最後の、そして最高の恵みをいただくために人を介護し、人に介護され、「もういいよ」という、愛する人達の声に送られて死を迎えるようにしたいと思った次第です。羽成さんは愛する人達を時には抱っこしながら、「もういいよ」と言って送ってあげたそうです。 |
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| 前置きが長くなってしまいましたが、本題の紹介に入りたいと思います。 羽成さんのお姑さんは、本当に大変のようでした。けっこう詳しく紹介していただいたのですが、この辺は必要最低限にしたいと思います。一人住まいのお姑さんを一目見てすべてを了解され、「一緒に住もう」とやや強引に家族とともに住む自宅へつれてこられたらしいのです。 そこでまず、最初のポイントです。「身体と心を分ける」ということです。これはけっこう大切であり、そして、実現できるとほっとすることが多い方法だと思いました。目が悪くなれば老眼鏡をかけるのと同じことなのです。オムツをするということは、ただそれだけのことと了解するのです。 羽成さんは実際に自分でも使用してみて、一番良い使い方でお姑さんに使ってもらったとのことでした。昼は、たとえ行きたくなくても時間を決めてトイレに行ってもらうようにする、そして、夜間はオムツを使ってもらうのです。これによって、介護者が共倒れしてしまうのを少しでも予防することができるわけです。 介護というのは、排泄物の世話ということに尽きる、ということも衝撃的でした。 この意味は、単におしっこやうんちのお世話ということだけではなく、頭からはふけや髪の毛、その他もろもろのものが生産されるのです。 身体からは汗が出てきます。手や足には爪という非常に発育のよいものもあるのです。そして、さらに介護は奥が深い。考え方や慣習の違い、そして言葉の奥に潜む本当の意味などが無視できないのです。 第一に、考え方の違いが「痴呆」(認知症)と誤解されることがあるのです。あるお金持ちのおばあちゃんは、使用済みのティッシュをきれいに並べてテーブルにおいてました。これを見た嫁さんは「ついに来たか。」と思ってしまう。けれども、本当は違ったのです。 育った頃の教育や環境の違いから「ものは大切に」ということが心に根付いていて、おばあちゃんは「もったいない。」と判断したのです。「未だ使えるではないか。」と思っただけなのです。 第二に、慣習の違いです。和式トイレを使い慣れたおばあちゃんが、洋式トイレの使い方を一回くらいで覚えられないのは当然といえば当然のことでしょう。水だって、トイレの紙だってもったいないのです。トイレが汚れていたって、その本当のところは、そんな違いが出てきただけなのかもしれないのです。 第三に、言葉の意味です。「寒い、寒い」という老人の叫びは、本当は「寂しい、寂しい」と言っているのかも知れない。「馬鹿野郎」の後ろには「世話になって悪いな」という感謝の言葉が隠れているのかもしれないのです。 |
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| ところで、羽成さんのお姑さんは、同居を始めてから4年を経た頃に、ちょっとした弾みで骨折してしまいました。そして、寝たきりになったのでした。いろいろ考えた羽成さん、家の前に「当方、寝たきり老人介護中。介護されている方、情報交換しませんか。」といった内容の張り紙を出しました。 すると、いろいろ悩んでいる方はいらっしゃるということなのですね。たくさんの人が見えたということです。「私はもうだめだ。」といった絶望感を吐露する人もいたようです。それは介護者が自分の心の中に潜む地獄を垣間見てしまい、自責の念に襲われるからなのです。 でも、羽成さんははっきりとおっしゃいました。「介護者は、毎日毎日嫌になるほど向きあっているのです。時には憎しみまで感じるのです。早く逝ってくれないか、と思ってしまうこともあるのです。でも、こうした憎しみの感情までを含めて、『愛』だと思うのです。」 本当の優しさについても言いました。 お饅頭を持ってきたり、お花を持ってきた人は、確かにやさしい人でしょう。 でも、お饅頭は消化して変化します。消えてなくなるわけではないのです。お花も腐ってしまえば異臭を発することになるのです。持ってきてくれることも優しさである事には違いがないのですが、こうした目に見えないところで排便の世話をしたり、ごみを片付けたりすることの方が、本当の優しさである、と。 介護という土俵を考えますと、その土俵にいかに多くの人達を上らせるか、ということが大切ともおっしゃいました。介護する人、される人の二人だけではだめです。何もしてくれない兄弟に、「一日のオムツ代として300円だけ援助してください。」と手紙を書いたといいます。300円が欲しいというわけではありません。要は、介護の土俵にできるだけ多くの人を乗せるのです。 すると、単純な割り算で、介護者の負担は楽になるのです。また、「介護道」を提唱していらっしゃいました。 介護の道には、多くの穴が開いているというのです。「誰も協力してくれない。」「私だけがなぜ・・・」などといった落とし穴に落ち込まないためには、そこに自分の人生をそっと潜ませるというのです。道を広げてしまうのです。ショートステイでもデイサービスでも良いですが、使えるものは使うのです。そして、自分の人生の幅を獲得するのです。 映画を見に行ってしまうのもオッケー、あるいは音楽を聴きにいってしまうのもいいと思います。私はこれを聞いて、「人生は拡幅できるのだな」と思いました。それも大掛かりな拡幅工事は不要なのです。 最後になってしまいましたが、実は、羽成さんのお姑さんは、この講演会に同席していてくれたのです。「えっ?、亡くなったのでは。」そうです。羽成さんがご主人とともに看取られました。お姑さんは安らかな顔をしていたそうです。「もういいよ。」というと、息が上がってきたのだそうです。 そして、車椅子で羽成さんの講演会に同席されたのは復活されたお姑さん(お人形さん)なのです。羽成さんの巧みな腹話術で、その日、元気に復活されていました。(吉田) |
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