| City104kenko|
ちょっと悪い話

【父の風景】

 私の父は既に死んでいます。平成4年、いや5年のことですので、かなり昔の話ではあります。大陸で死線を潜ってきた父とはもっともっと話をするべきだったと悔やんだことも、もう過去のことになってしまいました。父は明治の終わりのころに大地主のお坊ちゃまとして生まれたと聞いています。裏庭に林立する孟宗竹を家に伝わる名刀でスパッ、スパッと斜め切りして、父親(私の祖父)の大目玉を食ったこともあったと聞きました。けれども、時代の流れのなかで、私がもの心ついたころには群馬の片田舎で零細農家を兼業する公務員でした。公務員といっても、地方の出張所長という肩書きを最終に、管轄業界大手の窓際に『天下り』して、それも辞め、地元部落の『民生委員』などという仕事をしていたこともあったのです。

仕事って何?

 仕事って何なのでしょう?  父を見ていると、結構一生懸命に生きてきていたよなー、などと思います。仕事は『公務員』。でも、死ぬまで、父は仕事をしていた、と言えないこともないのです。民生委員も辞めてしまい、もうやることもなくなったころには、家の周囲にほんの少しある猫の額ほどの畑地に鍬を叩き込みながら汗を流していたようです。それを遠目に眺めていた母も既にいません。父の亡くなる1年余り前のことでした。くも膜下出血を起こしてクリッピング手術をし、術後は順調ではありましたが、感染症からその1年ほどあとに誰にも看取られずに病院のベッドで命を落としました。
 話がそれましたが、老妻老夫のふたりが寄り添うように生きていたころ、一番出来の悪い次男で末っ子の私は東京のど真ん中・新宿に隠れ家のような事務所を借りて好き勝手をしておりました。そして一年に一度、いや実際にはもうちょっとゆっくりとしたペースでちょこっと帰省して先祖の墓参りなどをし、お茶を濁していました。仕事って何でしよう? 父は公務員のころ、農家が生産する米穀の質を検査して等級付けをしたり、中央の農業政策を地方に伝達したりするようなことをしていたのでしょうか。実は、よくわかっていません。それくらい、私は『父の仕事』に無関心でした。けれども、それで母も私も兄弟も育ってきたことは事実でしょう。父は、決して忘却の彼方に追いやられるべきではないはずなのでしょう。
そうした父。亡き母にとって、兄弟にとって、あるいは一部の近所の人たちにとっても、大切でかけがえのない存在ともいえた父ですが、私はある日の風景を忘れることは出来ないのです。

シュールな、あまりにも非現実的な!

その日、私はいつものように東武電車に乗り懐かしい駅頭に立ち、駅前に一台ほどしかないタクシーを拾って10分、田舎の家に帰りました。母はいつものようにテンションが高く、狭い家の中を飛び回っておりました。『ビールでも飲むか』・・・私はそんな心遣いにいい気になってたくあんなどを摘みながらのどを潤していたような気がします(いつもこんな感じでした)。父はまだ80歳にはなっていなかったと思います。6歳年下の母は70歳くらいであったかもしれません。
父の姿が見えなかったのですが、特に気にすることもなく、仏壇を拝みに行くと、父がおりました。父は一生懸命に下着を着けているところでした。パンツではありません。股引だったような気がします。普通は、股引という下着は右手と左手を使って若干持ち上げ気味にしながら片足ずつ入れて身に付けるものでしょう。私も最近になって冬場には多少ご厄介になっているものです。少しはモダンなデザインにはなっているのでしょうが、下着は下着、股引は股引以外のものではありえません。
そこで、父は奇妙な動作をしていたのでした。サイケデリックというか、シュールというか、非現実的というか、独創的というか・・・。この股引という下着と、まさに『格闘』しているのです。下着という認識はあるのでしょう。そして、これを身に付けなければならないという認識も持っているのでしょう。けれども、どうもうまく身に付けられないのです。長い穴が二つついている、これはきっと二本の腕を通すものに違いない。股引の足を通す穴に手を一本ずつ突っ込むようにしていました。それもうまくはいかない様子で、今度は手が穴に包まれたままの状態で首に通そうと両腕を頭上に上げていました。・・・

下着を当たり前のように身に付けている、それが日常です。下着と格闘するのは『非日常』というべきでしょう。
そのとき、私は何をしていたのでしょうか。実は、まったく思い出せません。私自身の存在がイメージできないのです。父親と私は、そのとき、『父と息子』ではなかったのかもしれません。というよりも、私はそんな父を見て、自分自身を見失っていたのでした。私自身が失われていたのです。私は見てはいけないものを見てしまったのでした。一種、自責に近い感情が湧いていたようにも思います。あるいは、自分自身の存在の根底をいやおうなしに見せ付けられたという感じでしょうか。非日常の世界に堕してしまった父親を当然のように拒否してしまい、拒否してしまう自分自身を意識の外を追いやってしまったのかもしれません。
母が飛んできました。母は例によってテンション高く『父ちゃんは、ダメなんだから・・・』とか何とかいいながら、何事もなかったかのように下着を着けてしまった、ように記憶しています。母は、そんな父について息子の私に、そのときも、その後も何にも言いませんでした。私も聞かなかったのです。

【父の風景】

私の父は既に死んでいます。平成4年、いや5年のことですので、かなり昔の話ではあります。大陸で死線を潜ってきた父とはもっともっと話をするべきだったと悔やんだことも、もう過去のことになってしまいました。父は明治の終わりのころに大地主のお坊ちゃまとして生まれたと聞いています。裏庭に林立する孟宗竹を家に伝わる名刀でスパッ、スパッと斜め切りして、父親(私の祖父)の大目玉を食ったこともあったと聞きました。けれども、時代の流れのなかで、私がもの心ついたころには群馬の片田舎で零細農家を兼業する公務員でした。公務員といっても、地方の出張所長という肩書きを最終に、管轄業界大手の窓際に『天下り』して、それも辞め、地元部落の『民生委員』などという仕事をしていたこともあったのです。
仕事って何?
 仕事って何なのでしょう?  父を見ていると、結構一生懸命に生きてきていたよなー、などと思います。仕事は『公務員』。でも、死ぬまで、父は仕事をしていた、と言えないこともないのです。民生委員も辞めてしまい、もうやることもなくなったころには、家の周囲にほんの少しある猫の額ほどの畑地に鍬を叩き込みながら汗を流していたようです。それを遠目に眺めていた母も既にいません。父の亡くなる1年余り前のことでした。くも膜下出血を起こしてクリッピング手術をし、術後は順調ではありましたが、感染症からその1年ほどあとに誰にも看取られずに病院のベッドで命を落としました。
  話がそれましたが、老妻老夫のふたりが寄り添うように生きていたころ、一番出来の悪い次男で末っ子の私は東京のど真ん中・新宿に隠れ家のような事務所を借りて好き勝手をしておりました。そして一年に一度、いや実際にはもうちょっとゆっくりとしたペースでちょこっと帰省して先祖の墓参りなどをし、お茶を濁していました。
 仕事って何でしよう? 父は公務員のころ、農家が生産する米穀の質を検査して等級付けをしたり、中央の農業政策を地方に伝達したりするようなことをしていたのでしょうか。実は、よくわかっていません。それくらい、私は『父の仕事』に無関心でした。けれども、それで母も私も兄弟も育ってきたことは事実でしょう。父は、決して忘却の彼方に追いやられるべきではないはずなのでしょう。
そうした父。亡き母にとって、兄弟にとって、あるいは一部の近所の人たちにとっても、大切でかけがえのない存在ともいえた父ですが、私はある日の風景を忘れることは出来ないのです。
シュールな、あまりにも非現実的な!

 その日、私はいつものように東武電車に乗り懐かしい駅頭に立ち、駅前に一台ほどしかないタクシーを拾って10分、田舎の家に帰りました。母はいつものようにテンションが高く、狭い家の中を飛び回っておりました。『ビールでも飲むか』・・・私はそんな心遣いにいい気になってたくあんなどを摘みながらのどを潤していたような気がします(いつもこんな感じでした)。父はまだ80歳にはなっていなかったと思います。6歳年下の母は70歳くらいであったかもしれません。
父の姿が見えなかったのですが、特に気にすることもなく、仏壇を拝みに行くと、父がおりました。父は一生懸命に下着を着けているところでした。パンツではありません。股引だったような気がします。普通は、股引という下着は右手と左手を使って若干持ち上げ気味にしながら片足ずつ入れて身に付けるものでしょう。私も最近になって冬場には多少ご厄介になっているものです。少しはモダンなデザインにはなっているのでしょうが、下着は下着、股引は股引以外のものではありえません。
そこで、父は奇妙な動作をしていたのでした。サイケデリックというか、シュールというか、非現実的というか、独創的というか・・・。この股引という下着と、まさに『格闘』しているのです。下着という認識はあるのでしょう。そして、これを身に付けなければならないという認識も持っているのでしょう。けれども、どうもうまく身に付けられないのです。長い穴が二つついている、これはきっと二本の腕を通すものに違いない。股引の足を通す穴に手を一本ずつ突っ込むようにしていました。それもうまくはいかない様子で、今度は手が穴に包まれたままの状態で首に通そうと両腕を頭上に上げていました。・・・下着を当たり前のように身に付けている、それが日常です。下着と格闘するのは『非日常』というべきでしょう。

そのとき、私は何をしていたのでしょうか。実は、まったく思い出せません。私自身の存在がイメージできないのです。父親と私は、そのとき、『父と息子』ではなかったのかもしれません。というよりも、私はそんな父を見て、自分自身を見失っていたのでした。私自身が失われていたのです。私は見てはいけないものを見てしまったのでした。一種、自責に近い感情が湧いていたようにも思います。あるいは、自分自身の存在の根底をいやおうなしに見せ付けられたという感じでしょうか。非日常の世界に堕してしまった父親を当然のように拒否してしまい、拒否してしまう自分自身を意識の外を追いやってしまったのかもしれません。
母が飛んできました。母は例によってテンション高く『父ちゃんは、ダメなんだから・・・』とか何とかいいながら、何事もなかったかのように下着を着けてしまった、ように記憶しています。母は、そんな父について息子の私に、そのときも、その後も何にも言いませんでした。私も聞かなかったのです。

【父の風景】
ところで、若年性アルツハイマー症を患っている患者さんは10万人あまりといわれています。若年性といってもアルツハイマーであることに違いはありません。もちろん、若年性を敢えて分けなくてもいいのかもしれませんが、高齢者の場合と異なり、ビジネスの最前線にいる立場の人が発症することなどから、より厳しいといえないこともないのでしょう。ある福祉関係の本によると、AD、アルツハイマーとは、「脳の神経細胞が変性・脱落し、著しく明らかな痴呆状態をともないやすい。原因不明の進行性疾患で、発症の時期がはっきりしないことが多い。」と書いてありました。つまり、わかりやすく言えば、脳の細胞が壊れる、ということですね。しかも時の経過とともに悪くなっていくのですね。・・・そんな風なことと認識してよいと思っています。
脳が、壊れていく

 結構以前からなのですが、私は時々ボーっとしてしまい、自分の存在がどこかへ飛んでいってしまう感じに襲われることがあります。そんなにしょっちゅうではないのですが、電車の中でうとうとしたときとか、初めて訪れる超高層

ビルの事務所の中とか、ほとんど面識のない人の前で何かをしゃべっているときとか、・・・私の中で何か少し壊れたかな、と思うのです。極めて親しい人物なのに突然名前が出なくなってしまうなどということもあります。でも、今言っているADとは、そんなレベルではないのです。あなたは、日常的に接している極めて親しい人から『どなた様でしょうか?』と真顔で尋ねられたとしたら、どう感じるでしょうか。

 例えば、あなたのだんなさんは第一線のビジネスマン、まだ40代の終わり、まさに働き盛りです。しのぎを削る広告代理店の幹部として現場社員に檄を飛ばし続けてきた仕事人間です。ところが、ある日、最重要クライアントとのアポイントを失念してしまう。そしてまたあるとき、あなたは、木々に囲まれた自然道を真ん前から歩いてくるだんなさんに知らん顔をされてしまうのです。そんな馬鹿ななどと思いながら、あなたは『あなた!』と声をかけますが、逆に怪訝な顔をされてしまい、『大丈夫ですか?』などと心配顔で言われてしまいます。さらに、自己紹介までされてしまい、『お名前は?』などと聞かれてしまったら。・・・最近の映画のなかでこんなシーンがありました。このたとえ話は虚構です。虚構だから、特に問題にするほどのことではありません。けれども、こうした虚構の風景があなたの目の前に、いや私自身の風景として、ある日突然に現実のものとなるかもしれないのです。

虚構との接触
 父のばあいはADではなく、三度も脳溢血で倒れていましたから、おそらく脳血管性の痴呆(認知不全)の症状を呈していたのだと思っています。けれど、父が、私をこの世に送り込んでくれた父が、下着と格闘するシーンは私には『虚構』以外の何ものでもなかったのです。虚構との接触は、それが経過してしまえば再び日常を取り戻してくれるのです。それほど『日常』にこだわっている私ではありませんが、というよりも、日々の生活のなかに取り立てての価値を見出すこともなく過ごしているというか、自主性に欠ける自分自身であるくせに、虚構がスクリーンや文字の中にではなくて眼前に展開されることには抵抗があったといわざるを得ません。そんな、虚構の風景がありました。そして、かなりの時間が過ぎました。
【介護の風景】
 このあいだ、在宅で介護しているご家庭を訪問する機会がありました。介護しているほうの方は80歳ちょっと、介護されている方もそれより2歳くらい年上の80歳を超えるお姉さんでした。すばらしい信頼関係が見えました。こんな信頼を勝ち得るのならばそれだけで人間として生まれてきた甲斐があるのではないかと思いました。ただ、詳しくはいえないのですが、その信頼関係は外界の時間と多少のずれがありました。少なくとも、私にはそう感じられたのです。異空間、でありました。介護とは、つまり、介護していない人にとっては多少の『ずれ』があり、その『ずれ』が異空間を産出するのです。その『ずれ』のことを一般的に『非日常』と呼んでいるのではないでしょうか。しかし、この『非日常』を『日常』そのものとして受け入れて、何の不平不満も漏らさずにただコツコツと親族の介護をしている風景、それが『介護の風景』なのです。私は、在宅で介護しているということ、それ自体が愛おしくてならないのです。人間のいろいろな感情の屈折を織り込んでしまい、あるいは畳み込んでしまい、介護の風景として人の目の飛び込んでくる、そんな時空は、私には、絶対に手の届かない、だからこそ愛おしい、そんな時空なのです。
介護ができなかった不幸
 私は、父も母も介護することはありませんでした。それは不幸なことであったといえるでしょう。すくなくとも、父も母も、そんな異空間に生存していた時間があったのですから。私は、すでに過去となってしまった父親と母親と共有していた時空を、今、ものすごく愛おしんでおります。そして、それが出来ない。出来なかったという気持ち、後悔とは違うのですが、何か自分自身のなかに忸怩たる思いが鬱積している、そんな思いが介護の仕事をしていこうとしている動機のひとつ、理由のひとつであることは間違いないのではないか、そんな気がしております。
  私も含めて、もちろん私の父も母もそうでしたが、時の経過とともに何かが変わっていくのでしょう。それを『変性』と呼ぶこともあるでしょうし、『脱落』と呼ぶこともあるでしょう。たとえ腕が、たとえ足が、たとえ幼き頃の記憶や感情の一部が、あるいは、脳細胞自体が変性しようが、脱落しようが、愛おしむべきものがあるのではないかと感じています。それを『いのち』と呼ぶ人があるかもしれません。かけがえのない命を介護することが出来なかった自分自身を、今、何らかの形で『取り戻そう』としているのです。